「好きや……跡部」
そう言った、相手の声が酷く掠れていたので、少し震えたその唇を見詰めたまま、何も言い出せなかったのだ。
柔らかな陽の光が大きな窓から差し込み、校舎を暖かく包んでいる。
時折吹く風はまだ少し冷たいが、それも間もなく爽やかな春風に変わるだろう。
道すがら少しだけ乱れた髪を、軽く手櫛で整えながら下駄箱へと向う。
慣れた動作で上履きに履き替えると、目的地へ向うべく歩き出した。
外気を遮った廊下は、降り注ぐ陽の光を一杯に蓄えぽかぽかと暖かい。
思わず出そうになる欠伸を噛み殺しながら、その心地良さに知らず足取りも緩やかになる。
まだ春休み中の学園内はひっそりと静まり返り、自らの履く上履きの、少し間の抜けた足音のみが控えめに響いていた。
それでもこのゆったりとした空気は損なわれる事なく、
何とはなしに窓の外を眺めながら歩を進め、そろそろ桜の時期だったか、とぼんやり考えた。
あと少しで、中学校生活最後の一年が始まる。
歩き慣れたルートを辿って行くと、通り道である二年生の教室が見えて来た。一年を過ごした馴染みの一角。
この静かな雰囲気がそうさせるのか、判らないが、何処か感慨深さを覚えふと立ち止まる。
図らずもそこは自分が元居た教室で、そっと腕時計に視線を落とし、
まだ時間に余裕のある事を確認するとそっと教室の引き戸に手を掛けた。
はっと息を呑む。がらがらと音を立てて開いた戸の向こう、教室の中に、思いもよらず人がいるのを見付けたからだ。
喉まで出掛かった驚きの声を押し止めると、向こうも向こうで、
突然破られた静寂にびくりと身体を震わせこちらを振り向き、目を見張らせた。
一瞬、相手の表情が強張る。何処か痛みを堪えるように、寄せられる眉。まるで、会いたくなかったとでも言うように。
「……何や妙なとこで会うなあ」
しかしすぐに普段見せる、人当たりの良い穏やかなそれに変わる。
表情が曇ったのもほんの一瞬で、気付かないと言えば気付かない、そんな程度のものだ。
しかしその垣間見せた相手の顔が、何故だかやけに目に焼き付いて、離れない。
「びびらさんといてえな……跡部」
長い黒髪をかき上げながら微笑を浮かべ、忍足が、俺の名を呼ぶ。
独特のイントネーションで紡がれるその低い声は、胸の奥をざらざらと撫で上げられるかのような、
妙に落ち着かない気持ちにさせた。
「……それはこっちの台詞だバーカ」
意図して憎まれ口を叩きながら、忍足の方へ足を向けると、ほんの僅か彼の肩が強張るのを感じた。
「バカはひどいわぁ」と、忍足が大して酷いとも思っていない調子で受け答えして来る、それを、
わざとらしいと思うのは気の所為だろうか。
自分の動揺を打ち消そうとするような彼の様子が、何となく気に食わない。
教室の中は、直接陽の当たる廊下よりも幾分か気温が低く感じられた。
窓際寄りの後ろの席に、忍足は足を前に投げ出すように腰掛けている。
ふわりと笑みを向けて来る忍足を見遣りながら、考えを巡らせた。覚えがある。その席は。
「こない半端な時期にどないしてん。何かあったん?」
思考は、しかし忍足の言葉に遮られた。見上げてくる視線を受け止めると、眉根を寄せ不機嫌を装う。
「……それもこっちの台詞だ」
言いながら、忍足の右隣の机に寄り掛かるように腰を下ろした。
「お行儀悪いでぇ生徒会長」と茶化して来る言葉は、無視して続ける。
「俺は監督に頼まれてた書類の提出だ」
まあ別に急ぎじゃねえけど、と付け加えながら手に持っていたファイルケースを軽く持ち上げて見せた。
お前こそ何だ、と問い掛けるように目を合わせると、そのまま忍足のいる机の上に視線を落とす。
木製の板からパイプの足が伸びているだけの簡素なそこには、
プリントが一枚とシャープペンが一本、無造作に投げ出されている。
プリントの一番上には「進路希望調査書」と活字で印刷されてあり、その右下にある記入欄に、
出席番号と名前が書かれてある他は全て空欄だった。
「終業式んなってもずーっと出さんでいたら、遂に呼び出しや」
俺の視線の先を辿るように俯くと忍足はそう呟き、苦笑を浮かべた、ように見えた。
ばさばさと長い前髪が頬を覆うように垂れ掛かり、表情が、よく見えなかったのだ。
まるで、心の内まで覆い隠したがっているように見え、そしてそんな風に考えた自分を、何だか馬鹿らしいと思った。
「こんなん三年なってからでもええやろ思うけどなあ」
「……そんなだらだらと、いつまでもらしくなく悩む程のことなのかよ」
わざわざ呼び出す程の事かいな、とぶつぶつ言い淀む忍足を見下ろし、如何にもうざったそうにぴしゃりと言ってのける。
馬鹿らしい。この時期からそこまで根を詰めて考える物でもない。
こんな物、後から幾らでも変更出来るだろうに、そんな事、こいつなら普通に判っているだろうに。
適当に埋めてさっさと提出してしまえば良いものを、何だってこいつはわざわざ呼び出しまで食らっているのか。
いつもの要領の良さは一体何処へ行ったのか、腑に落ちないと言うよりは唯唯不思議でならなかった。
馬鹿らしい。今度は口に出して呟いた。
「………」
また、のらりくらりとした言葉が返って来ると思っていたら、忍足は、そのままふつりと黙り込んでしまった。
言葉が途切れた途端、もやもやと広がる沈黙。
机の上を見詰める忍足の横顔は、真っ黒で不揃いな髪の毛で覆われ矢張り見えないままだ。
何だろう、この居心地の悪さは。どうにも調子が狂う。
きっと、普段とすっかり様子の違う、この教室の雰囲気の所為だ。
ほんの少し前まで極普通に通っていた筈なのに、何故だか自分の存在ばかりが浮いて見える。
それは忍足についても同じで、そもそもクラスも違かった忍足が、ここでこうして座っている意味も判らない。
ゆっくりと、辺りを見渡す。
真上よりも少しだけ傾いた太陽は、教室の中を直接照らす事はしない。
ほんの少し薄暗さを感じる、ここから見える窓の外は明るく、きらきらとしていて、
そこだけ四角く切り取った別世界のように見えた。
それともこの教室だけが俺と忍足を巻き込んで、隔離されているのだろうか。
外からは何の音も聞こえて来ないし、何となく淀んだ空気を湛えたこの中も、
微動だにしなくなった目の前の男のように何の音も立てず、
耳を澄ませば、お互いの息遣いすら聞こえて来そうな。
忍足が、大きく息を吸い込んだのが判った。
「……跡部は、何て書いたん?」
絞り出すような声。こちらは振り向かない。
「……知ってるだろ」
だから、一瞥をくれた後、なるべく無感動な声で呟いた。
俺が中学を卒業した後は、そのまま海外へ留学する事が決まっている。
ずっと前から、自分自身ではもう中学に入学した時から、既に気持ちは固まっていた。
テニスで、もっと強くなりたい。思い描く夢を俺は実現させる自信があったし、それを止めようとする声も上がらなかった。
周りに隠す事もしなかったし、誰もが激励の言葉を掛けて来た、その中には勿論、
妬みの類いだとか陰を帯びた声もあったが、俺には気にもならなかったし、取るに足りない事だった。
一緒に練習に励む気心の知れた部活仲間達は、悪態を付きながら更に土産をせがんで来る始末だ。
皆で遊びに行ってやるから無料ツアーを企画しろだのとぬかしたのは宍戸だったか(勿論蹴りを入れてやった)。
そうだ、そんな騒ぎの中で忍足だって、一緒に笑っていた筈だ。
「知っとる。知っとるよ。跡部がやりたい事もその行き先も知っとる。
俺なんかが望んでもどうにもならん高みを目指しとる事も、後ろなんか振り向かへん事も知っとるわ」
俺が口を開くより早く、堰を切ったように忍足が一気に捲し立てて来た。
抑えてはいるが、内に昂りを孕んだ声。
その勢いに押された所為だけではない、驚きに、思わず口を噤み忍足をまじまじと見詰める。
今までにこの男が、こんなにも感情的に言葉をぶつけて来た事があっただろうか。
いつでも穏やかな笑みを浮かべ、その心の内など、滅多に見せる事はなかったのに。
それとももしかすると唯、俺が忍足のそういう面を見ていなかっただけなのかも知れない。
知っているなら何故、そんな言葉を一切拒絶するように、忍足は頑なに俯いたままでいる。
「忍足、」
だから代わりに、静かな声で名前だけを呼んだ。
それをどのように捉えたのだろう、忍足の、太腿の上で固く握り締められた拳が、ぴくりと震えるのが見えた。
忍足はやがて、のろのろと顔を上げ首だけ動かし、こちらを見上げて来た。
笑おうとして失敗したのか、口の端が不器用に歪んでいる。
瞳は危なげに揺らめき束の間俺を捕えるも、すぐに逸らされ俺のネクタイ辺りに視線を泳がせた。
何か言いたげに引き攣った口元を動かすのが見えたが、中々言葉は聞こえて来ない。
その様子を、俺は無言のまま珍しい物でも見るように眺めながら、
ああ、忍足も、こんな余裕がなくなる事もあるのか、とぼんやり考えた。
「俺かて、」
どのくらい経ってからだろう、一度唇をきゅっと引き結ぶとゆっくりとまた開き、忍足はぼそぼそと力無い声で話し出した。
「ほんまはもう、書くこと決まってんねん。……せやけど、」
そこで一旦言葉を切り、息苦しそうに眉根を寄せる。
「……跡部と、離れてまうんやて、自分で決定付けるみたいで、ずっと、書けへんかってん」
途切れ途切れに紡がれる言葉。俺から顔を背けるように再び項垂れる。
「……判っとるんやけど」
判っとるんやけどな、ともう一度呟くと、忍足は自嘲するように乾いた笑いを立てた。
「………」
纏わりつく空気は、暑くもないのにじっとりと重苦しい。
吸い込むと、胸の中までもやもやと溜まっていくような感じがして居心地が悪かった。
だからきっと、それが俺の中で複雑に絡んで、上手く言葉が紡げないのだ。
何だってこいつは、俺をこんな、よく判らない気持ちにさせるのだろう。
「……まだ……一年以上も先の話だ」
だから、自分には滅多に無い、曖昧な言葉しか口に出来なかった。
反応はなかった。多分、忍足が望んでいるのはこんな、中途半端な言葉などではない。
かと言ってそれが何なのか、俺には知る由もなかった。
こんな風に、忍足が覇気を失っている理由も、俺に対する執着のようなそれが何なのかも、
忍足が、ここで、この席に座っている意味も。
「……そこ、俺の席だった」
返事が返って来る様子がないので、目にして気付いた時から燻っていた疑問を、ぽつりと呟いた。
忍足が、微かに身を震わせる。まるで、俺に怯えているようだ。
少ししてから、知っている、と言うように極小さな頷きが返って来た。
さらりと揺れる髪の毛の隙間から、ちらりと眼鏡の縁だけが覗く。
今この目の前の男が一体どんな表情をしているのか無性に気になったが、
まるで隔たりがあるようにばさばさと長く伸びた前髪がまたも邪魔をした。
気に食わないので片手を寄せその一房を、ひょいと掬い上げてみた、途端、忍足がびくりと大きく身を震わせた。
ぎこちなく、そろそろと視線を合わせて来たその瞳は、先程と同じように不安げに揺らめいている。
今にも、泣き出しそうだと思った。
そして忍足は、耐え切れないと言うように眉根を寄せぎゅっと目を瞑ると、のろのろと口を開いた。
ざわり、と心が騒ぐのを感じた。
「好きや……跡部」
忍足の前髪を持ち上げていた指が強張ったので、
その拍子にするりと髪の毛は逃げていき、またぱさぱさと持ち主の顔に落ちてしまった。
虚しく空を掻く形になった自分の指が妙に間抜けに映り、
手持ち無沙汰になったそれを引っ込めるのすら、変に緊張した。
いや、そんな下らない事に無理にでも意識を持って行かなければ、
吐息混じりの掠れた声が俺の内側をざわざわとくすぐっていくような感覚に、
この、何とも言えない衝動を、抑え切る事が出来なかったのだ。
それでも不思議と、嫌悪感は無かった。
今この男を狼狽させているのが自分なのだと考えると、何となくむず痒いような、
それでいてそわそわと浮き上がるような感覚が、自分の胸の中に広がって行くのを感じた。
そんな自分に僅か狼狽え、しかしその感情の正体は、判らない。
沈黙を破ったのは、忍足だ。
「なんてな、冗談や、冗談。本気にしたやろ」
はは、と笑い混じりの声。いぶかしむように眉を顰めると、見上げて来た顔も、明るい笑みを刻んでいる。
何と、見合わない。
「今まで一緒に頑張ってきたやろ? あと一年でお別れや思たら寂しなってな?」
隠し切れず微かに震える唇の方が、余程、彼の感情を露にしているのに。
全く、馬鹿らしい。
何だってこいつは、俺をこんな、よく判らない気持ちにさせるのだろう。
徐に上体を寄せ目の前の机に片手を付き、忍足の唇に自分のそれを触れ合わせた。
手をついた時に机の上のシャープペンを弾き落とし、カシャンと軽薄な音が立つのを聞いたが、
そんなのは知った事ではない。
ほんの少し触れるだけの口付けは、相手のその感触など味わう間も無かった。
しかし、今この教室での他愛無い出来事として、妙にしっくりとくる気がした。
唇を離した後の至近距離で、探るように見詰めた忍足の顔に、俺は満足げな笑みを浮かべて見せる。
「……好きってのは、こういう事だよな」
当然、返事はなかった。
声も出ないというのがありありと判る位に、眼鏡の奥の双眸は真ん丸く見開かれていたからだ。
「俺は監督の所に行って来る。忍足、ここで待ってろよ」
ふつふつと込み上げて来る笑いを堪えながらそう言い放つと、ファイルケースを持ち直し再び廊下へと出て行った。
戸を閉める時にちらりと忍足の方を見ると、俺と向き合っていた方向を見詰めたまま動かずに、いや、固まっていた。
声には出さず笑いながら、歩き出す。
外気を遮った廊下は、来た時と変わらず陽の光に明るく照らされ、ぽかぽかと暖かい。
そして変わらずひっそりと静まり返っている。
教室の中での出来事は、どうと言う程のものでもない、他愛の無い出来事だ。
俺と忍足の進む道には何の影響力も持たない、取るに足りない出来事だ。
唯、変わった事と言えば、この内に生まれた正体の掴めないおかしな感情くらいである。
それを突き詰める前に、あのぼさぼさの黒髪の反応を楽しむのも、悪くないかも知れない。
早くあの教室まで戻りたくて、俺は目的地へと足を速めた。
後書き:
何だか突然、怒濤のように小説もどきをアップしてみたシンです。柄でない?ごもっとも。
本当に急に書き出しました。突然どうしたの自分。遠い昔に戯れに書いた物を除けば、初めて一本仕上げました。
何だか色々と恥ずかしい代物ですみません……文章も稚拙な限りであいすみません……。
心理描写というのは本当に難しいと思いました。多分半分も表現出来ていないと思います……うむむ。
無駄に説明じみて読み辛い所も多いかと。多分、なりチャで培って来た独特の癖の所為です(笑)。
一応跡忍跡と言う感じで、どちらにも取れるようなお話を目指しました。冒頭が誰だか判らないのはわざとです。
忍足がひたすら情けなくて跡部が普通に真性ホモのようでした(愚)。何だろうこの微妙な話。
ともあれ自己満足も甚だしい物ではありますが、完読して下さった方がいらしたら、有難うございました。
もし宜しければご意見、ご感想など頂けると非常に嬉しいです〜。
2006,4,25 シン